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一念にてたれり [『末燈鈔』を読む(その199)]

(4)一念にてたれり

 「さるべきことにてさふらふべし」と「十方の衆生に回向すればとて」の間に「しかし」が隠れているのではないでしょうか。こういうことです。「一念のほかにあまるところの念仏は、十方の衆生に回向」するということは間違っていないでしょう、しかし、だからと言って、自分の往生のためには「一念にてたれり」として、多念を「往生にあしきことゝおぼしめされ」るのはいかがなものでしょうと、親鸞は言っていると思われます。それでは結局「一念にてたれり」に固執していることになるからです。
 それに続いて「念仏往生の本願とこそおほせられてさふらへば、おほくまふさんも、一念・一称も、往生すべしとこそ、うけたまはりてさふらへ」と言いますのは、法然上人を持ち出し、上人は第18の願を「念仏往生の願」と名づけられ、その念仏を一念とも多念とも限定されていませんから、一念でも多念でも往生できると言われているのですということでしょう。かくして「一念ばかりにて往生すといひて、多念をせんは往生すまじきとまふすことは、ゆめゆめあるまじきことなり」という結論になります。
 「一念にて往生の業因はたれり」とか「一念ばかりにて往生す」と言うその根本に、往生の業因はみずから手配しなければならないという思いが隠れています。そもそも「たれり」という発想そのものに、みずから手配するということが含意されています。「これで足りる」とか「いや、これではまだ足りない」とは、自分が用意するものについて、あるいは自分が誰かに要求するものについて言うことです。この言い回しには、往生の業因はこちらで用意するものという前提が潜んでいるのです。
 しかし、往生の業因は向こうから用意されるものです。気がついたらもう用意されているのです。それについて「たれり」も「たらざる」もありません。


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