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十方の衆生に回向すべし [『末燈鈔』を読む(その200)]

(5)十方の衆生に回向すべし

 親鸞が「さるべきことにさふらふ」と言った「十方の衆生に回向すべし」についても、ひと言。
 もしこれが「自分のためには一念で十分だから、残りの念仏は十方の衆生に分け与えよう」ということでしたら、念仏を「わがもの」としていると言わなければなりません。誰かから饅頭をいただき、自分は一つで十分だから、残りはみなさんにおすそ分けしようというとき、その饅頭は由来から言えば「いただき物」であるとしても、「わが饅頭」と意識しているに違いありません。ですから、おすそ分けしてもらった人にも、それは「わが饅頭」であることをちゃんと知っておいてもらわなければ困るのです。
 では「十方の衆生に回向する」ことをどう考えればいいでしょう。
 ここで事前と事後を区別する必要があります。もし事前に「十方の衆生に回向しよう」と思って念仏するとしますと、いま見ましたように、その念仏は「わがもの」となっています。でも、事後的に(気がついたらすでに)「十方の衆生に回向した」ことになっているとしますと、「わがもの」を回向したのではありません。先ほどの饅頭の例では、自分ではそんなことをした覚えはないのに、どういうわけか、みんなに饅頭が分け与えられているとしますと、それは「わが饅頭」をおすそ分けしたのではありません。
 還相回向(利他回向)は難しいと言われますが、これも事前と事後の区別をすれば了解できるのではないでしょうか。もし事前に「利他をしよう」と思ってする行為は似非の還相と言わなければなりませんが、そんな気はまったくないのに事後的にみれば利他となっている行為こそ真の還相です。曽我量深氏はそれを「前姿は往相、後姿は還相」と言われました。自分に見える前姿は「やれ救われた、ありがたい」と念仏しているだけなのに、それが後ろからは「十方の衆生に回向している」ように見えるのです。


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