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よろづの仏・菩薩をかろしめまいらせ [『末燈鈔』を読む(その205)]

(10)よろづの仏・菩薩をかろしめまいらせ

 ここ第1段では諸仏・菩薩や神祇・冥道を軽んじ、侮ることを「ゆめゆめなきことなり」と戒めています。
 当時、東国の念仏者たちの間にそのような傾向があり、それが念仏弾圧の格好の口実とされたものと思われます。その土地土地に根づいている神社・仏閣に対する信心を軽んじ、侮ることが、世の秩序を混乱させるもとだとみなされるのはよく分かります。この下野・常陸の地には、ひとつには善光寺の信仰が広がり、また鹿島神宮が大きな影響力をもっていました。そんな中で、「ただ念仏のみ」として他の神仏を侮ることが如何に周りを刺激し、苛立たせることか。
 まず「よろづの仏、菩薩」について、親鸞はこう言います、「世々生々に無量無辺の諸仏・菩薩の利益によりて、よろづの善を修行せしかども、自力にては生死をいでずありし」と。このように、これまで生まれかわり死にかわりして、諸仏・菩薩の教えによりさまざまな修行をつみかさねてきたけれども、自力では生死の迷いから出ることができなかったと親鸞が言うとき、彼の頭には29歳に至るまで比叡山で厳しい修行をしてきたことが浮かんでいたのではないでしょうか。
 そしてふとした縁で「いままうあひがたき弥陀の御ちかひにあひまいらせ」たのですが、それも「曠劫多生のあいだ、諸仏・菩薩の御すゝめ」があったからに違いなく、その「御恩をしらずして、よろづの仏・菩薩をあだにまふさんは、ふかき御恩をしらずさふらふ」と言わなければならないと言うのです。親鸞は「まうあひがたき弥陀の御ちかひにあひまいらせ」たことに深い宿命を感じているに違いありません。たまたま弥陀の本願に遇うことができたのだが、実はそこには諸仏・菩薩のはからいが隠されていたのだと。


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