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さまたげをなさんひとをばあはれみをなし [『末燈鈔』を読む(その210)]

(15)さまたげをなさんひとをばあはれみをなし

 さまたげをなす人に怒りをもつのではなく「あはれみをなす」というのは、どのような心性でしょうか。
 これだから宗教はダメなのだ、という反応があるかもしれません。世の不合理に立ち向かっていこうとせず、怒りをねじ伏せて「悟り」や「救い」の中に逃げ込もうとする、と。どうして真正面から立ち向かっていかないのか、というこの問いに親鸞ならどう答えるかを考えてみたいと思います。
 まず怒りについて。念仏生活を理不尽にさまたげられたら、それに怒りを抱くのは自然で、まったく怒りが起こらない方がどうかしていると言わなければなりません。でも、問題はそのあとです。親鸞が「よくよくやうあるべき」というのは、どうしてこの人はさまたげをなすのかと推し測り、そこにはそれなりの事情があるに違いないと了解するということです。それは決して「ところの領家・地頭・名主」を是認することではありませんが、でも、そのような立場があることを理解するということです。
 そうすることで、さまたげをなす人に怒りを募らせ、憎しみに身を任せることから遠ざかることができます。そもそも、どんな人も念仏をさまたげるなどということができるはずがありません。前に言いましたように(第13章-14)、念仏に敵は存在しないのです。念仏のさまたげをなす輩は仏法の敵だとして立ち向かっていくのは、念仏を「わがもの」にしていると言わなければなりません。念仏が「わがもの」だとしますと、それを取り上げようとする輩は紛れもなく敵でしょうが、念仏は弥陀から賜るのですから、それを邪魔だてすることは誰にもできません。
 「ところの領家・地頭・名主」が念仏を停止するということは、その人たちは残念ながらまだ本願に遇うことができていないということに他なりません。だからこそ「かのさまたげをなさんひとをばあはれみをなし、不便におもふ」のです。


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