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『末燈鈔』を読む(その211) ブログトップ

第9通第3段 [『末燈鈔』を読む(その211)]

(16)第9通第3段

 つぎに念仏せさせたまふひとびとのこと、弥陀の御ちかひは煩悩具足のひとのためなりと信ぜられさふらふは、めでたきやうなり。たゞし、わるきものゝためなりとて、ことさらにひがごとをこゝろにもおもひ、身にも口にもまふすべしとは、浄土宗にまふすことならねば、ひとびとにもかたることさふらはず。おほかたは、煩悩具足の身にて、こゝろをもとゞめがたくさふらひながら、往生をうたがはず、せんとおぼしめすべしとこそ、師も善知識もまふすことにてさふらふに、かゝるわるき身なれば、ひがごとをことさらにこのみて、念仏のひとびとのさはりとなり、師のためにも善知識のためにも、とがとなさせたまふべしとまふすことは、ゆめゆめなきことなり。
 弥陀の御ちかひにまうあひがたくしてあひまいらせて、仏恩を報じまいらせんとこそおぼしめすべきに、念仏をとゞめらるゝことに沙汰しなされてさふらふらんこそ、かへすがへすこゝろえずさふらふ。あさましきことにさふらふ。ひとびとのひがさまに御こゝろえどものさふらふゆへに、あるべくもなきことゞもきこえさふらふ。まふすばかりなくさふらふ。たゞし念仏のひと、ひがごとをまふしさふらはゞ、その身ひとりこそ地獄にもをち、天魔ともなりさふらはめ。よろづの念仏者のとがになるべしとはおぼえずさふらふ。よくよく御はからひどもさふらふべし。なをなを念仏せさせたまふひとびと、よくよくこの文を御覧じとかせたまふべし。あなかしこあなかしこ。

 (現代語訳)次に、念仏しておられる人々のことですが、弥陀のお誓いは煩悩具足の人のためであると信じておいでになるのは結構なことです。ただ、悪いもののためと申しても、ことさらに間違ったことを心にも思い、身にも口にもしていいというのは浄土宗の教えではありませんから、人々にそのように言うべきではありません。煩悩具足の身として、してはいけないと思いながらそれを止めることができないのだから、往生は疑いなくできると思えばいいと師や善知識が言われているのに、悪い人間だからといって、ことさらに間違ったことをして念仏の人々の障りとなったり、師や善知識の罪が問われることになるようなことはゆめゆめあってはなりません。
 弥陀のお誓いに遇いがたくして遇うことができ、その御恩に報いなければならないと思わなければなりませんのに、念仏を停止されるのに手を貸すようなことをしているというのは、何とも納得のいかないことです。浅ましいことです。まちがってお考えになっておりますから、あるはずのないようなことが起こってくるのです。何とも申しようがありません。ただし、念仏をしている人がまちがったことを言いましたら、その人は地獄に落ちたり、天魔となったりもするでしょう。しかし、それがすべての念仏者の罪となるとは思いません。よくよくお考えになってください。なお、念仏しておられる人々によくよくこの手紙を読み聞かせてやってください。謹言。


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