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『末燈鈔』を読む(その214) ブログトップ

第10通 [『末燈鈔』を読む(その214)]

          第15章 仏法をばやぶるひとなし

(1) 第10通

 慈信房善鸞に宛てたはじめての手紙です。本文と追伸とに分けます。まず本文。

 ふみかきてまいらせさふらふ。このふみをひとびとにもよみてきかせたまふべし。
 遠江の尼御前の御こゝろにいれて御沙汰さふらふらん、かへすがへすめでたくあはれにおぼえさふらふ。よくよく京より喜びまふすよしまふしたまふべし。
 信願坊がまふすやう、かへすがへす不便のことなり。わるき身なればとて、ことさらにひがごとをこのみて、師のため、善知識のために、あしきことを沙汰し、念仏のひとびとのために、とがとなるべきことをしらずば、仏恩をしらず、よくよくはからひたまふべし。また、ものにくるふて死にけんひとびとのことをもちて、信願坊がことをよしあしとまふすべきにはあらず。念仏するひとの死にやうも、身よりやまひをするひとは、往生のやうをまふすべからず。こゝろよりやまひをするひとは、天魔ともなり、地獄にもをつることにてさふらふべし。こゝろよりおこるやまひと、身よりおこるやまひとは、かはるべければ、こゝろよりおこりて死するひとのことを、よくよく御はからひさふらふべし。
 信願坊がまふすやうは、凡夫のならひなれば、わるきこそ本なればとて、おもふまじきことをこのみ、身にもすまじきことをし、口にもいふまじきことをまふすべきやうにまふされさふらふふこそ、信願坊がまふしやうとはこゝろえずさふらふ。往生にさはりなければとて、ひがごとをこのむべしとは、まふしたることさふらはず。かへすがへすこゝろえずおぼえさふらふ。
 詮ずるところ、ひがごとまふさんひとは、その身ひとりこそ、ともかくもなりさふらはめ。すべてよろづの念仏者のさまたげとなるべしとはおぼえずさふらふ。
 また念仏をとゞめんひとは、そのひとばかりこそいかにもなりさふらはめ。よろづの念仏する人のとがとなるべしとはおぼえずさふらふ。
 五濁増時多疑謗 道俗相嫌不用聞 見有修行起瞋毒 方便破壊競生怨
と、まのあたり善導の御をしへさふらふぞかし。釈迦如来は「名無眼人、名無耳人」ととかせたまひてさふらふぞかし。かやうなるひとにて、念仏をもとゞめ、念仏者をもにくみなんどすることにてもさふらふらん。それは、かのひとをにくまずして、念仏をひとびとまふして、たすけんとおもひあはせたまへとこそおぼえさふらへ。あなかしこあなかしこ。
 
 (現代語訳)お手紙を書きます。これを他の人々にも読み聞かせてください。
 遠江の尼御前の御配慮が行き届いており、返す返す見事で心に沁みます。こちらでよくよく喜んでいるとお伝えください。
 信願坊が申しておりますことは、返す返す哀れむべきことです。悪い人間だからといって、ことさらに間違ったことを好み、師や善知識にとって都合の悪いことになったり、念仏の人々にとって咎となるのが分からないというのは、仏恩をしらないと言わねばなりません。よくよくお考えください。また、正気を失って死んだ人たちのことで、信願坊のことを善いとか悪いとか言うべきではありません。念仏する人が身の病で死ぬ場合の往生のありさまについてあれこれ言うべきではありません。心の病で死ぬ人は、天魔となったり、地獄に落ちることもあるでしょう。心の病と身の病は別ですから、心の病で死ぬ人のことは、よくよく考えなければなりません。
 信願坊の言うのは、凡夫というものは元々悪人だから、思ってはいけないことを好んで思い、してはいけないことをし、言ってはいけないことを言うものだということでしょうが、信願坊がそのように言っているとは納得いきません。往生の障りにはならないからといって、間違ったことを好んですればいいなどと言ったことはありません。返す返す納得できないことです。
 結局のところ、間違ったことを言っている人は、その人自身がどうなるかはともかくも、他のすべての念仏者にとって妨げになるようなことはありません。また念仏を禁止する人はどうなろうとも、すべての念仏する人の咎となることはありません。
 「濁りはてた時なればこそ、疑いや謗りが満ち満ちて、僧俗ともに仏法を忌み嫌い、耳をかすこともありません。修行に励むひとがあれば、瞋りの心を起こし事を構えて邪魔だてし、競って怨みを起こすのです」と、善導大師が親しくお教えくださっています。釈迦如来は、念仏を禁止するような人を「眼のない人、耳のない人と名づく」と言われています。そのような人ですから、念仏を禁止したり、念仏者を憎んだりするようなことになるのでしょう。ですから、そのような人を憎まずに、むしろ念仏をして助けてあげようと思われるべきです。謹言。


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