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慈信房善鸞 [『末燈鈔』を読む(その215)]

(2)慈信房善鸞

 いよいよ慈信房善鸞に宛てた手紙です。9月2日の日付けしかありませんが、第9通と同じ建長7年9月2日だと推定されます。その根拠は第9通のところで述べました。善鸞宛ての手紙として残されているのは3通で、この手紙(第10通)と、同じ『親鸞聖人御消息集』の第11通、そして高田専修寺蔵の古写消息(いわゆる義絶状)です。この手紙は9月2日付け、第11通は11月9日付け、そして義絶状は5月29日付けとなっています。
 義絶状には5月29日の日付けの後に、善鸞によって「同六月廿七日到来、建長八年六月廿七日註之」と書き加えられていますから、建長8年のことに間違いないでしょう。この建長8年5月29日を基準にしますと、第10通と第11通はその前年、建長7年の9月2日と11月9日に書かれたものと考えられます。この建長7年から8年の時期に関東では大きな混乱が起こっていたことは繰り返し述べました。
 親鸞の手紙の中に慈信房善鸞の名が出てくるものが2通あります。一つは『親鸞聖人御消息集』第12通、正月9日付け真浄坊宛の手紙で、もう一つは『血脈文集』第2通、5月29日付け性信房宛の手紙(いわゆる義絶通告状)です。この義絶通告状は慈信房宛の義絶状と同じ日付けとなっており、建長8年の5月29日である事は間違いないでしょう。そして真浄坊宛の手紙もその内容からして同じ建長8年の正月9日と考えられます。
 そこで、先の善鸞宛の3通を含めた全5通を書かれた順番に並べてみますと、次のようになります。
  1.建長7年9月2日   慈信房宛  『御消息集』第10通
  2.建長7年11月9日  慈信房宛  『御消息集』第11通
  3.建長8年正月9日   真浄坊宛  『御消息集』第12通
  4.建長8年5月29日  慈信房宛  『古写消息』(義絶状)
  5.建長8年5月29日  性信房宛  『血脈文集』第2通(義絶通告状)


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