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慈信房善鸞(つづき) [『末燈鈔』を読む(その216)]

(3)慈信房善鸞(つづき)

 この順に読み進みますと、親鸞の善鸞に対する疑惑が次第に深まっていくさまが見えてきます。そして関東の混乱の背後には善鸞がいることを次第に確信していくさまも浮かび上がってきます。さてまず関東の念仏者の間にどんな混乱があったのか、先回りになりますが、5通の手紙から読み取れることを列挙してみましょう。
 1. 東国の念仏者たちが「ひごろの念仏はみないたづらごと」と思うようになった。
 2. 「おほぶの中太郎」のもとに集まっていた人々が九十何人か中太郎を捨てて慈信房のもとへ移った。
 3. これまで親鸞が書き送った『唯信鈔』や『後世物語』などの文が「みなそらごと(うそ偽り)」とされてしまった。
 4. 「余のひとびとを縁として、念仏ひろめんとはからひあはせ」る動きがあり、そのように親鸞が言ったことになっている。
 5. 親鸞が「名目をもきかず、いはんやならひたることも」ない法文を、「慈信一人に、人にはかくして」教えたことになっている。
 6. 慈信房が「第十八の本願をば、しぼめるはなにたとえて」、その結果「人ごとに、みなすて」てしまった。
 これらが事実そのままとしますと、親鸞としてはこれまで自分が念仏往生の教えを一生懸命広めてきたことが水泡に帰してしまうように思えたのはよく理解できます。そしてこれらの混乱は全て自分の名代として関東に送った善鸞に原因があると分かった時の親鸞の驚きと嘆きは想像に余りあります。だからこそ親鸞としては息子善鸞を断固として義絶せざるを得なかったのでしょう。
 残念ながら善鸞がどうして、そしてどんなふうに親鸞の教えを歪めたのか、あるいは親鸞面授の弟子たち(性信房、真仏房など)との間にどのような対立が生じたのか、さらにはそうした混乱が「鎌倉にての御うたへ」とどのように関係したのかは、情報が少なくてぼんやりとしか分かりません。しかしこの義絶に至る一連の出来事は老齢の親鸞(83歳~84歳)を大いに悩ませたことは確かです。


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