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信願房のこと [『末燈鈔』を読む(その217)]

(4)信願房のこと

 さて第10通の本文ですが、よく分からないところがいくつかあります。まず冒頭の「遠江の尼御前」については何のことか皆目分かりません。そして話の中心を占める信願房についても、「ものにくるふて死にけんひとびとのことをもちて、信願坊がことをよしあしとまふすべきにはあらず」とはどういうことか、茫洋としてつかみがたい。善鸞が「ものにくるふて死にけんひとびとのこと」に関して信願房を中傷しているらしいことは感じられますが、それがどういうことかよく分かりません。
 はっきりしているのは、信願房が「凡夫のならひなれば、わるきこそ本なればとて、おもふまじきことをこのみ、身にもすまじきことをし、口にもいふまじきことをまふすべきやうに」言っていると善鸞が親鸞に報告しているらしいことで、親鸞はそれを「かへすがへす不便のこと」と嘆いています。ただ、「信願坊がまふしやうとはこゝろえずさふらふ」という書き方からしますと、「あの信願房がそんなことを言うとは信じられない」という感じが伝わってきます(信願房という名の人物は何人かいて、特定できません)。
 この時点(建長7年9月)では、善鸞からの報告に驚きながら、しかしそんなことがほんとうにあるのだろうかという疑念が渦巻いていることが分かります。
 ともあれ親鸞としては、「本願は悪人のためにあるのだから、悪をおそれることはない」などと言うことはゆめゆめあってはならず、それが念仏をとどめる理由とされているのですから、その旨を「念仏人々御中」へ知らせるとともに(第9通です)、同日に善鸞へも同じ趣旨の返信をしたためたのでしょう(第10通)。その中で、二通に共通して、「名無眼人、名無耳人」という経のことば、そして「五濁増時多疑謗 道俗相嫌不用聞 見有修行起瞋毒 方便破壊競生怨」という善導のことばを引き、「かのひと(念仏をとどめんとするひと)をにくまずして、…たすけんとおもひあはせたまへとこそおぼえさふらへ」と結んでいるのです。


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