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第10通追伸 [『末燈鈔』を読む(その218)]

(5)第10通追伸

 第10通の追伸部分です。ここでは、信願房以外に多くの弟子の名前が出てきて、親鸞の嘆きはさらに深まっています。

 入信坊・真浄坊・法信坊にも、このふみをよみきかせたまふべし。かへすがへす不便のことにさふらふ。性信坊には、春のぼりてさふらひしに、よくよくまふしてさふらふ。くげどのにも、よくよくよろこびまふしたまふべし。このひとびとのひがごとをまふしあふてさふらへばとて、道理をばうしなはれさふらはじとこそおぼえさふらへ。世間のことにも、さることのさふらふぞかし。領家・地頭・名主のひがごとをすればとて、百姓をまどはすことはさふらはぬぞかし。仏法をばやぶるひとなし。仏法者のやぶるにたとへたるには、師子の身中の虫のしゝむらをくらふがごとしとさふらへば、念仏者をば仏法者のやぶりさまたげさふらふなり。よくよくこゝろえたまふべし。なをなを御ふみにはまふしつくすべくもさふらはず。

 (現代語訳)入信坊・真浄坊・法信坊にも、この手紙を読み聞かせてください。返す返すも哀れなことです。性信坊には、この春上京しました折に、よくよく申してあります。くげどのにも、よくお礼を申し上げてください。この人たちが間違ったことを言い合っておられるからといって、ものの道理を見失ってしまわれたとは思われません。世間のことでも、同じようなことがあるものです。領家・地頭・名主が間違ったことをしているからといって、百姓を惑わすことはできません。仏法を破るような人はいません。仏法を破ることを譬えるのに、獅子の身中の虫が内からその肉を食うようなものだと言いますから、念仏者を妨げるのは仏法者自身なのです。よくよくお考えください。手紙で書きつくすことは到底できるものではありません。


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