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詮ずるところ、信心のさだまらざりける [『末燈鈔』を読む(その225)]

(12)詮ずるところ、信心のさだまらざりける

 親鸞の答えはこうでした、「念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。もししからば、南都北嶺にも、ゆゆしき学生たち、おほく座せられてさふらふなれば、かのひとびとにもあひたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。親鸞にをきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」。
 「あなた方は何を言っているのですか」と呆れている親鸞の顔が浮かんできます。「どうしてわたしがあなた方に隠し事をしなければならないのですか。しかもそれを息子にだけ教えるなどということがどうしてあるでしょう」と。わたしはただ法然上人から「念仏して弥陀にたすけられまひらすべし」と教えられ、それをそのままあなた方に伝えているだけのことです。それがどうして分からないのですかという嘆きが伝わってきます。そして最後に「このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなり」と言い放つのです。
 慈信房への手紙に戻ります。
 親鸞は、どうやら「獅子身中の虫」は他ならぬわが子慈信房らしいと気づきはじめます。そのことに対する驚きと嘆きはどれほど深く重いものであったかと思うのですが、しかしほんとうの嘆きはその獅子身中の虫にいとも簡単に食い破られてしまう弟子たちのふがいなさに向けられていたのではないでしょうか。慈信房が親鸞の息子であることを利用し、しかも虚言をまじえて念仏者たちを混乱させていることは言語道断だけれども、そんな虚言に足をすくわれ、これまで培ってきた念仏を捨ててしまう弟子たちの姿にどうしようもない無力感を覚えたに違いありません。「詮ずるところ、信心のさだまらざりける」ということばにそれが現われています。
 前に言いましたように(8)、獅子身中の虫は仏法をさまたげることができるのではなく、ただ信心がほんものかどうかをあぶり出すことができるだけです。

       (第15章 完)

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