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餘のひとびとを縁として、念仏をひろめん [『末燈鈔』を読む(その229)]

(4)餘のひとびとを縁として、念仏をひろめん

 第三点は「餘のひとびとを縁として、念仏をひろめんとはからひあはせたまふこと、ゆめゆめあるべからず」ということでした。「餘のひとびと」とは誰のことかが問題ですが、まあ常識的にその土地の有力者と考えていいのではないでしょうか。「ところの領家・地頭・名主」が念仏をとどめようと画策しているとしても、かれらも一枚岩ではなく、密かに念仏にこころを寄せている有力者もいるでしょうから、その人を頼りに窮地から脱しようとする動きがでてくるのも了解できないわけではありません。どうやら慈信房がその動きの中心にいたようです。
 しかし親鸞は、そのようなことは「ゆめゆめあるべからず」と言います。「どうも慈信房が、わたし親鸞がそのように言っていると説いてまわっているようだが、とんでもない、わたしはそんなことを言ったことはない」と言いきります。しかし、どうして「餘の人の強縁として念仏ひろめ」ることが「きはまれるひがごと」であるかについてはひと言も述べてくれません。そんなことは当たり前という感覚でしょうか。そこでこの機会に「宗教と政治」について思いを廻らしてみようと思います。
 もう一度、日蓮を持ち出しますと、彼にとって宗教と政治は別ものではありません。法華経の教えを護ることは、国家の安寧を護ることに他なりません。まさに「立正安国」です。しかし親鸞にとって念仏することは政治や国家とはまったく別のことです。前にも述べましたように、政治や国家が念仏をとどめようとしても、そんなことができるわけがなく、また逆に、念仏が政治や国家の力を頼りにして教線を伸ばそうとしても、そんなことができようはずがありません。
 なぜか。


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