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<いま>ということ [『末燈鈔』を読む(その234)]

(9)〈いま〉ということ

 慈信房が何を言ったか、法然上人が言われたことが何であったかではなく、それが機縁となって「むかしの本願が〈いま〉はじまる」かどうかが問題だということです。むかしの本願が〈いま〉はじまるなら、何が言われたかはどうでもいい、たとえそれが口から出任せの嘘八百でもかまわない。それで本願に遇うことができたのですから。でも逆に、言われることがどれほど正しくても、むかしの本願が〈いま〉はじまらないなら、それはただそれだけのことで、依然として本願に遇うことはできないままです。
 慈信房にすかされるのが「かなしく」「ふびん」であるのは、そのことによって、むかしの本願がまだはじまっていないことが露呈されたからです。もし本願に遇うことができていたなら、慈信房のことばに容易く騙されることなど考えられません。一方、法然上人にすかされても後悔しないのは、むかしの本願が〈いま〉はじまったからです。本願に遇えたのですから、法然上人の言われることが嘘八百であっても一向にかまわない。これで明らかでしょう、「まことの信心」とは、「むかしの本願が〈いま〉はじまる」ということです。むかしの本願は〈むかし〉はじまるのではありません。〈これから〉はじまるのでもありません。〈いま〉はじまるしかないのです。
 しかし〈いま〉とは何か。
 これは中島義道氏の受け売りですが、電話で友人に「いま何してる?」と尋ねられて「きみと電話してる」と答えるのはおかしい。友人はそんなことを訊いているのでないからです。〈いま〉には幅があり、短いと思う場合は「夕食を食べている」と答えるでしょうし、長い場合は「カントの研究をしている」と答えるのが適切です。このように、〈いま〉はそのときどきの幅をもち、それは〈これまで〉の幅に対応しています。昨日に対しての〈いま〉は今日であり、昨年に対しての〈いま〉は今年です(それは〈これから〉も同じで、昨日に対しては明日ですが、昨年なら来年となります)。


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