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無碍光仏 [『末燈鈔』を読む(その245)]

(5)無碍光仏

 さて親鸞は、十二光仏とは言うものの、「詮ずるところは」無碍光仏に尽きると言っています。そしてこう言います、「よろずのものゝあさましきわるきことにさはりなくたすけさせたまはん料に、無碍光仏とまふす」と。この「料(れう)」ということばは、『末燈鈔』の第5通、いわゆる「自然法爾章」に、「弥陀仏は自然のやうをしらせんれうなり」というかたちで出てきました。「料(れう)」とは、手立て、方便というような意味ですから、どんなに「あさましきわるきこと」があっても、「さはりなくたすけたまふ」ことを知らせるために、その手立てとして無碍光仏というのだということです。
 ぼくらはともすれば光があれば闇はないと思います。そして闇であれば光はないと。昼間は光があふれていて闇はなく、夜になると闇に閉ざされ光はないというように、光と闇が北極と南極のごとく分離されるのです。でも、繰り返しになりますが、光があるから同時にそこに闇があります。闇があるなら同時にそこに光があります。光と闇は背中合わせにぴったりくっついているのです。それは夜明けや夕暮れに光と闇が混ざり合うということではありません。まじりっけのない光とまじりっけのない闇が同時にあるのです。いや、まじりっけのない光があるからこそ、まじりっけのない闇があるのです。
 それが「よろずのものゝあさましきわるきことにさはりなくたすけさせたまはん料に、無碍光仏とまふす」の意味です。
 こちらに「よろずのものゝあさましきわるきこと」があふれている闇の穢土があり、あちらに光の浄土があるのではありません。闇の穢土と光の浄土は背中合わせにぴったりはりついています。ぼくらは「よろずのものゝあさましきわるきこと」から足を洗って、めでたく光あふれる浄土に往くのではありません。「よろずのものゝあさましきわるきことにさはりなく」無碍光はぼくらを照らし続けてくれているのです。


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