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義なきを義とす [『末燈鈔』を読む(その251)]

(11)義なきを義とす

 弥陀の本願についてさまざまにはからいあうのは、突きつめればそうした声(「本願なんて虚構じゃないのか?」)にどう答えたらいいかを思い廻らすことです。
 どうしてその声が気になるかと言いますと、自分自身の中からも同じような声がするからに違いありません、「本願って、ほんとうにあるの?」と。それはつまり本願に遇えたという実感がないということです。本願があるといいなあとは思うが、あるとは言えない。そんなときに、ニーチェのような人から「本願などに頼ろうとするのは弱さのニヒリズムである」と宣告されてタジタジしてしまうのです。そしてさまざまに言辞を弄するものですから、親鸞に「かやうに義のさふらふらん」と言われることになる。
 しかしすでに本願に遇った人はどうでしょう。きみは人生の無意味に耐えられず、幻想にすがりついているだけだ、と言われようと、そうかもしれませんが、わたしとしては自分からすがりつこうとしたわけではありません、と応じることでしょう。もし自分からすがりついたのなら、そうした行為の背後にあなたの言われるような動機があるのかもしれませんが、気がついたときにはすでに本願に遇っていたのですから、これはもう如何ともしようがありません。自分が本願に飛びついたのではなく、本願が自分に飛びついたのです、と。
 他力とはそういうことです。「ただ仏と仏のみ(唯仏与仏)」で、そこに自力の入る余地はありません。「さらに行者のはからひにあらず」です。
 しかしニーチェのような人はさらに追い討ちをかけるかもしれません、本願がきみに飛びついたと言うが、それはきみがそう思っているだけのことではないか。実際は、きみが無意識のうちに本願に飛びついているのだ、と。


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