SSブログ
『末燈鈔』を読む(その259) ブログトップ

約束が反故になる可能性 [『末燈鈔』を読む(その259)]

(5)約束が反故になる可能性

 天気予報と約束を比べてみますと、天気予報では、「明日は90パーセントの確率で晴れます」と予報されるその中身が問題であって、誰かがそのように予報したこと自体はどうでもいいことです。誰かが「三角形の内角の和は180度である」と言うとき、「三角形の内角の和は180度である」ことが問題の中心であって、誰かがそう言ったことはどうでもいいのと同じです。
 それに対して、誰かが「ぼくが死んだら、遺産はきみに上げる」と約束したとき、約束された中身はもちろん大事ですが、誰かがそう約束したことがそれにも増して重要です(オースティンという哲学者が言いますように、「明日は90パーセントの確率で晴れます」という文は事実を陳述しているだけですが、「ぼくが死んだら、遺産はきみに上げる」という文は、それ自体が一つの行為です)。
 天気予報は、それが外れたとしても(「明日は90パーセントの確率で晴れます」と予報したのに、どしゃ降りだった!)、外した予報官は、体裁は悪いでしょうが、その責任を問われることはありません。前に言いましたように、たまたま運悪く10回のうちの1回のケースが起こってしまっただけのことですから。しかし約束は、それが守られなかったら、守らなかった人の責任が厳しく追及されます。約束は、その中身が何であるかにかかわらず、約束をすること自体が重い意味を持つのです(因みに天気予報官は明日の天気を約束しません、ただ予報するだけです)。
 しかし、先ほど言いましたように、約束にも曖昧さがつきまといます。最初から騙すつもりで約束することもありますし(詐欺です)、当初はそのつもりだったが、後で心変わりすることもあります。約束は、それが反故にされる可能性がどこまでも残るのです。ですから子どもは親の約束に指きりげんまんをしますし、大人になったら証文を取ったり、証人を立てたりして、反故にされる可能性を減らそうと努力します。
 さて問題は「仏になることが約束される」ことですが、これまた約束である以上、反故にされる可能性は残るでしょう。


『末燈鈔』を読む(その259) ブログトップ