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深いため息 [『末燈鈔』を読む(その264)]

(2)深いため息

 この文面から親鸞の深いため息が聞こえてきます。
 そのため息はわが子・慈信房へ向けられているというよりも、慈信房に従って本願を捨ててしまった念仏者たちに向けられています。これまで信心が定まったと思っていた人たちが、あっさり本願を捨ててしまったと聞いて、「かへすがへすあさましふさふらふ」とため息をついているのです。さらに言えば、慈信房ごときの言うことを信じてしまった人たちを「としごろふかくたのみまいらせて」きた自分自身も情けなく思える。
 そんな幾重にも重なった深いため息です。
 このため息は何かと言いますと、これまで常陸・下野の念仏者たちは、自分の述べてきたことをしっかり受け止め、自分が法然上人から受け継いだ念仏がその人たちにちゃんとリレーされていたと思っていたのに、実はそうではなかったことが明らかになったということです。慈信房ごときが言うことにコロッと引っくり返るということは、そもそも彼らに本願への信がなかったということです。彼らの念仏は偽物だったということです。ああ、何ということか、と深いため息をつかざるをえません。
 上で「本願を捨てる」と言いました。親鸞自身、この手紙の先の方で「弥陀の本願をすてまいらせてさふらふ」と述べています。しかし、考えてみますと、本願は捨てられるものではありません。何かを捨てるということは、それを手に入れ、自分のものとしていたということです。しかし本願は自分で手にいれ、自分のものとすることができるようなものではありません。ぼくらが本願を手に入れるのではなく、本願がぼくらを手に入れるのです。そんな本願をどうして捨てることができましょうか。
 ですから、彼らは本願を捨てたのではありません、最初から本願に遇っていなかったのです。


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