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一念もうたがふことのさふらはぬ [『末燈鈔』を読む(その266)]

(4)一念もうたがふことのさふらはぬ

 第1段で東国の念仏者たちの信が定まらないことを嘆いた後、この段の初めに善導の印象的なことば、「まことの信をさだめられてのちには、弥陀のごとくの仏、釈迦のごとくの仏、そらにみちみちて、釈迦のをしへ、弥陀の本願はひがごとなりとおほせらるとも、一念もうたがひあるべからず」を持ち出し、本願を信ずるとは「一念もうたがふことのさふらはぬ」ことだと述べます。これは信の本質をついています。
 「信ずる」の反対である「疑う」について考えてみましょう。
 すぐ前のところで「捨てる」ということを考えました(2)。何かを捨てるには、それを自分で手にいれ、「わがもの」としていなければなりません。いまだ「わがもの」でないものは捨てられませんし、そもそも「わがもの」にできないものは、もとより捨てられません。「疑う」ことについても同じことが言えないでしょうか。何かを疑うには、それを自分で手にいれ、「わがもの」としていなければならないのではないか。
 誰かの言うことを疑うためには、まずもってその人の言っていることを「理解する」ことが必要です。相手が何を言っているのかチンプンカンプンのとき、それに同意することはもちろん、それを疑うこともできません。「理解する」ということは、自分の頭で受け取り「わがもの」とすることに他なりません。英語で“get”とは、「手に入れる」ことですが、それは「理解する」ことでもあります。“I have got him”と言えば、彼の言うことは分かった、ということです。
 としますと、いまだ“get”していないことは疑えませんし、そもそも“get”できないことはもとから疑えません。さて問題になっているのは本願です。本願はぼくらが“get”するものではなく、本願がぼくらを“get”するのです。それをどのようにして疑うことができるでしょう。


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