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一念もうたがひあるべからず [『末燈鈔』を読む(その267)]

(5)一念もうたがひあるべからず

 親鸞が手紙の中に引いた善導の印象的なことば「まことの信をさだめられてのちには、弥陀のごとくの仏、釈迦のごとくの仏、そらにみちみちて、釈迦のをしへ、弥陀の本願はひがごとなりとおほせらるとも、一念もうたがひあるべからず」は『観経疏』「散善義」の一節の意をとったものです。
 「うたがひあるべからず」と締めくくられていますが、これを「疑ってはならない」と解釈するべきではなく、「疑いがあるはずがない」としなければなりません。「疑ってはならない」でしたら、疑うことも疑わないこともできるが、決して疑ってはいけないということですが、「まことの信」にはもともと疑いが入る余地が寸毫もないのですから、「疑いがあるはずがない」のです。
 ここで物言いがつくかもしれません。きみは、本願に“get”されたから、そこに疑いの入る余地はないと言う。しかし、ひょっとしたら“get”されたと思っているだけで、そんなのはただの幻想かもしれないじゃないか。そういう疑いにはどう答えるのか、と。デカルトを思い出します。
 彼はあらゆることを疑おうとして、最後は悪魔の存在を持ち出します。とんでもない悪魔がいて、ぼくらの頭のネジを微妙に狂わせているのかもしれない。とすれば、数学の真理のように疑いの余地はないと思えることも、悪魔にそう思わされているだけで、実は疑わしいかもしれない、と。デカルトはその上で、こう言います。なるほど悪魔がぼくらの頭のネジを狂わせているかもしれないが、そんなふうに疑っている「わたし」が存在することは疑いようもなく確かだか、と。
 いまはこの議論にコミットすることは控えますが、ただ言えることは、ぼくらの頭のネジが狂わされていて、あらゆることが疑わしいというのは、真っ当な疑いではないということです。ありとあらゆることが疑わしいというのは、実は何かを疑うことになっていません。ものごとを疑うことができるのは、少なくとも何か確かなことがあるからです。(疑うということについて、もう少し続けます。)


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