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本願に“get”される [『末燈鈔』を読む(その268)]

(6)本願に“get”される

 あらゆることが疑わしいとしますと、そのように疑っていること自体も疑わしくなりますから、もう何をしているのか分からなくなります。もう一度もとの地点に戻りますと、何かを疑うには、それを「わがもの」としていなければなりませんでした。としますと、「わがもの」として“get”したものが正しいかどうかは疑わしいとしても、それが「わがもの」であることは確かです。確かな「わがもの」の大地の上で安心して疑うことができるのです。デカルトが「われ思う、ゆえにわれあり」というのはそのことでしょう。
 さて、いま問題となっているのは、「本願に“get”された」というのは、ただそう思っているだけで、ほんとうはそんなことはないのではないかということです。
 これがもし「本願を“get”した」ということでしたら、言われるように、ただそう思っているだけかもしれません。本願なんてどこにも存在しないのに、あたかもそれが実在するかのごとく、つかみ取れたと錯覚しているだけではないか、そう疑うことはあります。いや、疑わなければなりません。しかし、「本願を“get”した」のではありません、「本願に“get”された」のです。これはもう疑う、疑わないの話ではありません、現実そのものです。
 「本願を“get”した」というときの“get”は「頭」でのことです。しかし「本願に“get”された」というときの“get”は「全身」のことです。前者は頭で了解するということですが、後者は全身を鷲づかみにされることです。こう言った方が手っ取り早い。突然、激痛に襲われたとき、「痛みを“get”した」とは言いません、「痛みに“get”された」と言います。痛みに全身が鷲づかみされたのです。そんなとき、「ただそう思っているだけで、ほんとうはそんなことはないのではないか」と言う人がいたら、ぶっ飛ばしてやりたくなるのではないでしょうか。


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