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咽喉もと過ぐれば熱さ忘れる [『末燈鈔』を読む(その273)]

(11)咽喉もと過ぐれば熱さ忘れる

 ここでもまた同じことで、もし信心が「本願を“get”する」ことでしたら、一度“get”したからと言って安心するわけにはいきません。いつも気を張って“get”し続けなければなりません。ぼくの頭に浮かぶのは『蜘蛛の糸』の主人公・カンダタです。彼は極楽への手掛かりとして蜘蛛の糸を“get”したのですが、首尾よく極楽に行くには、常に、文字通り常に糸をしっかり摑んでいなければなりません。一瞬でも気が緩んで糸から手を離してしまいますと、それまでの努力は水の泡になってしまいます。
 しかし信心とは「本願を“get”する」ことではなく、「本願に“get”される」ことです。したがって問題は、一度「本願に“get”され」ても、それが変ってしまうことがあるかということです。もう一度「痛み」のたとえを持ち出しますと、ぼくらは「痛みを“get”する」のではありません、「痛みに“get”される」のですが、さてそれは変ってしまうでしょうか。「咽喉もと過ぐれば熱さ忘れる」ことはあります。ケロッとして、そんなことがあったかという顔をしています。
 同じように、一度「本願に“get”され」ても、それをすっかり忘れてしまうことはあるでしょう。しかし、それは本願を捨てることではありませんし、また本願を疑うことでもありません。何度も言って恐縮ですが、そもそも本願を捨てることも疑うこともできません。そうするためには「本願を“get”する」ことが必要ですが、ぼくらは「本願に“get”される」しかないのです。しかしそのように「本願に“get”され」たことを忘れてしまうことはあります。
 でも心配ご無用、またすぐ思い出します。本願の方で放っておいてくれないのです。それはまたどうかした弾みに「おまえはとんでもない悪人だ」という声とともにやってきます。「咽喉もと過ぐれば熱さ忘れる」のですが、熱さはまた有無を言わさずやってくるのと同じです。ですから信心は忘れることはあっても、変わってしまうことはありません。もし変ってしまったとすれば、それは最初からなかったということです。

         (第19章 完)

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