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『末燈鈔』を読む(その279) ブログトップ

第3段 [『末燈鈔』を読む(その279)]

(6)第3段

 義絶状の最後の段です。

 これらほどのそらごとはこのよのことなれば、いかでもあるべし。それだにも、そらごとをいうこと、うたてきなり。いかにいはむや、往生極楽の大事をいひまどわして、ひたち・しもつけの念仏者をまどわし、おやにそらごとをいひつけたること、こゝろうきことなり。第十八の本願をば、しぼめるはなにたとえて、人ごとに、みなすてまいらせたりときこゆること、まことにはうぼふのとが、又五逆のつみをこのみて、人をそむじまどわさるゝことかなしきことなり。ことに破僧の罪とまふすつみは、五逆のその一なり。親鸞にそらごとをまふしつけたるは、ちゝをころすなり。五逆のその一なり。このことゞもつたえきくことあさましさまふすかぎりなければ、いまはおやといふことあるべからず、ことおもふことおもいきりたり。三宝・神明にまふしきりおわりぬ。かなしきことなり。わがほうもんににずとて、ひたちの念仏者みなまどわさむと、このまるゝときくこそ、こゝろうくさふらえ。しむらむがおしえにて、ひたちの念仏まふす人々を、そむぜよと慈信房におしえたると、かまくらにてきこえむこと、あさましあさまし。
 五月廿九日                             (在判)
   同六月廿七日到来
   建長八年六月廿七日註之
 慈信房 御返事
   嘉元三年七月廿七日書写了

 (現代語訳)このような偽りは世俗のことですから、よくあるとも言えます。しかし偽りを言うのは悲しいことです。まして往生極楽の大事を言い惑わして、常陸・下野の念仏者たちを迷わし、親に偽りを言いつけるなどというのは、本当に嘆かわしいことです。第十八の本願をしぼんだ花に譬えたものですから、人々がみんな捨てられてしまったというのは、まことに謗法の罪で、また五逆の罪を好んで行い、人を傷つけ惑わすというのは悲しいことです。特に破和合僧という罪は五逆のひとつです。わたしに偽りを言いつけるのは父を殺すことで、これも五逆のひとつです。このようなことを伝え聞くのは、情けないこと限りなく、今はもう親ということもありません、子と思うこともやめました。仏・法・僧の三宝および神明にお誓いしました。悲しいことです。自分の教えに似ていないということで、常陸の念仏者たちをみな惑わそうとしていると聞きますのは、何とも情けないことです。親鸞の指示で、常陸の念仏者たちをそこなうようにあなたに教えたと鎌倉に伝わっているのは、嘆かわしいことです。


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