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本願招喚の勅命 [『正信偈』を読む(その4)]

(4)本願招喚の勅命

 インド人は昔も今も挨拶のことばとして「ナマステ(こんにちは、さよなら、など)」と言いますが、これは“Namaste”で、「あなた“te”をうやまいます“namas”」ということです。ここから「南無阿弥陀仏」とは、「ナマステ」と同じように「阿弥陀仏をうやまいます」と挨拶しているのだということが分かります。
 ですから当然ぼくらが阿弥陀仏に「あなたをうやまいます」と挨拶しているわけですが、親鸞は驚くべきことを言います。『教行信証』「行巻」の六字釈とよばれるところで、「南無」とは「帰命」で、それは「本願招喚(しょうかん)の勅命」だとあります。
 招喚とは「呼ぶ」ということでしょう。そして勅命とは「命令」ですから、招喚の勅命とは「来なさいという命令」ということです。ぼく流に言いますと「帰っておいで」となります。ですから阿弥陀仏がぼくらに「帰っておいで」と呼びかけているということです。ここに親鸞の他力思想の頂点があります。
 「南無阿弥陀仏」とは、われらが阿弥陀仏に呼びかけているのではなく、阿弥陀仏からわれらに「帰っておいで」と呼びかけているということ。
 もちろんわれらも「南無阿弥陀仏」と称えるのですが、それは、阿弥陀仏が「帰っておいで」とわれらを招喚してくださっている声を聞いて、こころに喜びがあふれ、思わず「はい、ただいま」と応えているのです。まず阿弥陀仏からわれらに呼びかけがあり、それにわれらが応えているということ、これをまず確認しておきたいと思います。
 しかしまだ釈然としないところがあります。阿弥陀仏からわれらに呼びかけるのに「南無阿弥陀仏」はおかしいのではないかということです。


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