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「アロー」と「ウィ」 [『正信偈』を読む(その7)]

(7)「アロー」と「ウィ」

 以前何とも恐ろしい日記を読んだことがあります。寝たきりの息子を介護する高齢の母親がつけていた日記ですが、その内容というのは、生活費に困窮し、日々食べる物がなくなっていく様子を克明に記録しているのです。最後に残ったせんべい一枚を息子に与え、自分は水でしのぐところで記述は途絶えています。それからどれくらいしてからでしょう、二人の遺体とともにその日記が発見されたのですが、一体この母親は何のために日記をつけ続けたのでしょう。
 何の意味もないように思えます。自分たちが死んだ後、見つけた誰かに読んでもらおうと思ってつけていたとも思えません。としますと、やはりどこかから呼びかけが聞こえて、その声に応えていたとしか考えようがありません。仏壇の中からか、あるいは天井からか誰かの「あなたはどこにいますか、どうしていますか」という声がして、それに応えているのではないでしょうか。
 デリダは、ぼくらがことばを発するとき、形としては現われなくても、その頭に必ず「ウィ」がついていると言います。電話に出るとき「はい」と言う、あの「はい」です。これは「ノン(いいえ)」に対する「ウィ(はい)」ではなく、たとえ「ノン」と言うときでも、その前にある「ウィ」です。「はい、わたしです」という「はい」です。そして、この「ウィ」は誰かの「アロー(もしもし)」に先立たれています。「アロー(もしもし)」とどこかから呼びかけられるから、それに「ウィ(はい)」と応えているのです。
 電話のときにそれは一番はっきりしていますが、それ以外の場合も「アロー」と「ウィ」は隠れているだけで、必ずその構図の中でぼくらの発語(話しことばでも書きことばでも)は成り立っているとデリダは言います。


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