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いのちの声 [『正信偈』を読む(その9)]

(9)いのちの声 

 「南無阿弥陀仏」は「こちらから」称えるより前に、「向こうから」聞こえてくるものだということを述べてきました。名号とは弥陀の呼びかけだということです。これを「いのちの声」と名づけたいと思います。弥陀とは「無量のいのち(アミターユス)」でした。ですから弥陀の呼びかけとは「いのちの声」です。
 ここで是非とも言っておかなければならないのは、まず「無量のいのち」があり、しかる後にそれが声を発するのではないということです。まずもって弥陀がいて、しかる後にわれらに呼びかけるのではないのです。弥陀が呼びかける声なのです。呼びかける声以外に弥陀がいるわけではありません。
 阿弥陀仏とは南無阿弥陀仏なのです。南無阿弥陀仏以外に阿弥陀仏はいません。
 森の中で目を閉じてみましょう。風やせせらぎの音に混じって、小鳥たちの声が聞こえてきます。それがどうかした弾みで「南無阿弥陀仏」と聞こえることがあります。「生きていてよかったね」あるいは「そのまま生きていていいよ」と鳴き交わしている。目を開けてみますと、そこには小鳥たちの姿しかなく、小鳥たちが「南無阿弥陀仏」と鳴き交わすはずがないと思いますが、目を閉じますと、ただ「南無阿弥陀仏」の声だけが辺りを満たしています。これが「いのちの声」です。
 ぼくらの目は、ただ何かが「見える」だけでは満足せず、それは何であるかを「見分けよう」とします。でも、ぼくらの耳は、ただ何かが「聞こえる」だけで喜びに満たされることがあります。もちろん、それが何であるか「聞き分けよう」とすることもありますが、そのときは目も動員されるのが普通でしょう。あらゆる感覚を総動員して、それは何かを知ろうとします。それが生きるのに必要だからです。
 でも、思いがけず向こうからやってきた声に「ほれぼれと」聞きほれるときは、それが何であるかはどうでもいい。因幡の源左に「源左たすくる(たすけるぞ)」の声が聞こえたとき、それがどこから来るのかはどうでもいいのではないでしょうか。「無量のいのち」が見えるのではありません、「いのちの声」が聞こえるだけです。だから、名号は阿弥陀仏ではなく、南無阿弥陀仏なのです。

(第1章 完)

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