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物語を聞くということ [『正信偈』を読む(その12)]

(3)物語を聞くということ 

 さて『無量寿経』です。これも他の大乗経典と同じく、釈迦が弟子の阿難(アーナンダ)に語るという設定ですが、語る内容が他の経典とちょっと、いや、かなり違うのです。釈迦自身の悟りを語るのではなく、法蔵菩薩の物語を語るのです。「法蔵菩薩、因位のとき、世自在王仏のみもとにありて」というように物語が展開していき、それも『法華経』のように、譬えとして説くのではなく、あたかも過去にそのようなことがあったかのように説いていくのです。
 ここに『無量寿経』の特異性があります。そしてそれがぼくらを戸惑わせます。浄土の教えが物語にもとづいていることに戸惑うのです。本願を信じるというのは物語を信じることに他ならないとすれば、そんなことがどうしてできるのかと、もうそこで離れていく人がたくさんいるのではないでしょうか。そこで「物語を聞く」ということについて腰を据えて考えてみたいと思うのです。まずは小説やドラマ、映画といった「フィクション」について思いをめぐらしてみましょう。
 ぼくらはこれまでどれほどフィクションを聞いたり読んだりしてきたことでしょう。そしてどれだけ涙を流したことでしょう。もちろん、これはフィクションであると知ったうえで涙を流すのです。それは、たとえ事実ではなくても、そこに真実が感じられるからに違いありません。としますと、あることが事実であるかないかと、そこに真実があるかないかとは別だということではないでしょうか。事実ではあっても真実を感じないこともあれば、逆に、事実でなくても真実を感じることもある。
 法蔵菩薩の物語は事実ではありませんが、そこに深い真実があるのではないでしょうか。


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