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生きてきてよかった [『正信偈』を読む(その13)]

(4)生きてきてよかった

 次に考えたいのは、どんなときに「物語を語る」という形式をとらなければならないかということです。
 前に南無阿弥陀仏は「いのちの声」だと言いましたが(第1章―9)、それを「いのちの願い」と言ってもいいでしょう。弥陀の本願とは「いのちの願い」です。その願いをひと言にしますと、「生きてきてよかった」と実感することではないでしょうか。どのいのちも、いちばん深いところでこの願いをもっています。ただこの願いには普通の願いと異なるところがあります。
 ぼくらの普通の願いは、「おいしいものを食べたい」でも「快適な家に住みたい」でも「尊敬される地位につきたい」でも、みな「こちらから」願わなければ一歩も前に進めません。もちろん「こちらから」願えば、それだけで叶えられるわけではありません。その願いに向かって一生懸命努力をしなければならないでしょう。でも、何をおいてもまず自ら願うこと、これが大前提です。
 ぼくは高校教師として、まったくやる気のない生徒にてこずったことがしばしばあります。彼らはすぐ「分からん」と投げ出します。「どこが分からんのか」と尋ねますと「全部」と言います。彼らはもう分かりたいという思いを失ってしまっているのです。もし彼らに分かりたいという気持ちがありましたら、どこで躓いているのかを探りながらゆっくり丁寧に説明していくことができます。でも、分かりたくない生徒ばかりは何ともなりません。
 このように、ぼくらの願いは「こちらから」願うもの、「みずから」願うものであってはじめて動き出します。ところが「生きてきてよかった」と実感したいというのは何ともなりません。どれほど一生懸命願い、どれほど一生懸命それに向かって努力しても、こればかりは叶えられません。


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