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『正信偈』を読む(その17) ブログトップ

物語の登場 [『正信偈』を読む(その17)]

(8)物語の登場

 源左はこの気づきのあと「ようこそ、ようこそ」の人生を歩むことになります。例えばある日、母の求めで畑に芋を掘りに行ったところ、ちょうど芋泥棒がせっせと芋を掘っている。源左はそっと踵を返し、手ぶらで帰ってきたそうです。母の「あんや、芋はどがなこったいのう(芋はどうなったのか)」に、「ああ、今日はおら家(け)の掘らん番だっていのう(今日はうちの掘る番ではなかった)」と答えたといいます。
 こんな「ようこそ、ようこそ」は、もう狂気と言われてもおかしくありません。そういえば、ぼくの幼少期、近所のお婆さんが道を歩いていて、うっかり柄杓で水をかけられたとき、「ありがたい」と言って、かけた人を驚かせたという話を母から聞いたことがあります。これも「このお婆さんは頭がおかしい」と言われかねません。こんな「ようこそ、ようこそ」や「ありがたい」を言わせる「ひかり」には、それにふさわしい物語が必要でしょう。
 それが法蔵菩薩の物語です。もちろん、源左が裏山で名状しがたい経験をしたそのときに、法蔵菩薩の物語が生まれたわけではありません。源左はすでにこの物語の中に生きていたのです。彼は若いときからお寺に通っていたと言いますから、法蔵菩薩の話は繰り返し聞いていたに違いありません。
 でもそれは「昔々、あるところに」というお話に過ぎなかった。それをお伽噺のように聞いていただけでしょう。それがあるとき、源左自身の物語になったのです。そういう意味では、源左が法蔵菩薩の物語をつくったと言ってもいいのではないでしょうか。源左が自分の名状しがたい経験にことばを与えようとするとき、この物語が必要となったということです。


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