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南無阿弥陀仏のリレー [『正信偈』を読む(その20)]

(11)南無阿弥陀仏のリレー

 法然は専修念仏の根本をただ第18願ひとつに置きました。『選択集』のどこにも第17願への言及はありません。しかし親鸞は第18願が成り立つためには第17願が是非とも必要だと考えました。第17願と第18願は一体のもので、第17願がありませんと、第18願が成り立ちませんし、また第18願がありませんと、第17願は完結しません。この関係をきちんととらえる必要があります。
 第17願で諸仏が称名しますが、それはわれらにとっては聞名です。諸仏の南無阿弥陀仏がわれらに聞こえるのです。そしてそれは第18願でわれらの称名になります。「聞其名号 信心歓喜 乃至一念(その名号を聞きて信心歓喜せんこと乃至一念せん)」です。諸仏の称える名号が聞こえますと、こころは喜びで一杯になり、その喜びがおのずと名号となって口から出ていくというのです。
 このように諸仏の称名がそのままわれらの聞名で、そしてその聞名がそのままわれらの称名でした。向こうからわれらのこころに入ってきた南無阿弥陀仏が、そのままわれらの口から出ていくのです。その南無阿弥陀仏がまた誰かのこころに入っていく。こんなふうに称名と聞名が渾然一体となっています。
 こう見てきますと、「諸仏」の称名といい、「われら」の称名といっても特段の違いがあるわけではありません。同じ南無阿弥陀仏の声が世界中をリレーして回っているのです。こうして南無阿弥陀仏の声は隈なくゆきわたります。
 「いのちの声」が口々に「そのまま生きていていいよ」、「生きてきてよかったね」と呼び交わしているのです。

          (第2章 完)

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