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気づかない人がいるのは [『正信偈』を読む(その27)]

(7)気づかない人がいるのは

 さあしかし、これでおしまいと言うわけにはいきません。「こんにちは」が、ただの「こんにちは」としか聞こえない人と、「そのまま生きていていい(南無阿弥陀仏)」と聞こえる人の違いは何でしょう。本願に気づいて、はじめて本願は姿をあらわすのですが、気づく人はいいとして、気づかない人がいるのはどういうことでしょう。
 ここで、本願に気づくには、それ相応の準備が必要としますと、またもや「手柄としての信心」が顔を出します。「あなたが気づかないのは信心がないから」という言い回しが登場するのです。信心を本願受けとめの「条件」としてしまう。しかし「賜りたる信心」とは、こちらに本願を受けとめるための何の準備もいらないということです。
 では再度問います、受けとめる人と受けとめない人の違いはどこから出てくるのでしょう。これには残念ながら答えることができません。ある人は受けとめ、ある人は受けとめない、以上おわり、と言うしかありません。ただ、受けとめた人が、そのときを振り返って気づくことはあります。「こんな自分でいいのか?」、「このまま生きていていいのか?」という問いを抱えているときに、「そのまま生きていていい」の声が届くのだと。
 「そのまま生きていていい」という応答は、「このまま生きていていいのか?」という問いと対になっているということです。
 でも、再度言います、「このまま生きていていいのか?」という問いをもつことが、「そのまま生きていていい」を受けとめるための条件というわけではありません。そんなふうにしてしまいますと、またしても「手柄としての信心」になります。そうではなく、「そのまま生きていていい」の声が届くのは、「このまま生きていていいのか?」という問いをかかえているときだというだけです。この二つは対となって届くのです。

             (第3章 完)

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