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証としての正定聚 [『正信偈』を読む(その30)]

(3)証としての正定聚

 こうして名号と信心が回向され、その結果として十一願により等覚と涅槃が与えられることになります。等覚とは正覚(仏の悟り)の一つ手前で、親鸞の解説にありましたように、正定聚の位のことです。弥勒と同じく、必ず仏になることを約束されている地位に他なりません。涅槃は言うまでもなく仏の境地を指します。
 このように、名号と信心を賜った結果として等覚と涅槃が与えられると述べられており、等覚と涅槃がはっきり分けられていることに注目しなければなりません。本願により往生を得るとだけ言うのではなく、等覚と涅槃を得るとされていることには大きな意味があります。
 現代語訳にそえましたように、「今生において」等覚(正定聚)となり、したがって必ず涅槃をえるということで、言うまでもなく大事なのは今生の等覚です。涅槃はいわばおまけにすぎないとも言えます。だからこそ親鸞は上の解説において龍樹の「即時入必定」と曇鸞の「入正定之数」を出し、信の定まったそのとき(「信楽開発の時刻の極促」)に正定聚の位につくことを強調しているのです。
 今生において正定聚となる、ここには汲めども尽きぬ不思議があります。これまで何度か話題にしてきましたが、改めて考えてみましょう。
 大事なのは今生の正定聚で、涅槃はそのおまけだと言いました。それをもっと端的に言えば、救いは「いま」しかないということです。「あした救われる」のでは救いにならないのです。いや、こう言うべきでしょうか、「あした救われる」ことが救いになるためには、それが「いま」実感されなければならない、と。そして「あした救われる」ことが「いま」実感されるということは、もう「いますでに救われている」ということです。


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