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「きょう」と「あした」 [『正信偈』を読む(その31)]

(4)「きょう」と「あした」

 未来は現在にしかないということ。「あした救われる」から「いま救われる」のではありません。「いますでに救われている」から「あした救われる」と思えるのです。どういうことか。
 そもそも「あした救われる」とはどういうことでしょう。言うまでもありません、「あした」に救いの希望を託すということです。「いま」現在ぼくらはさまざまな苦しみ、悲しみ、悩みをかかえています。それらから「いま」抜け出すことはできない。でも、いつかきっと抜け出せる日がくる。そう信じることが「あした救われる」ということです。
 「あした」とは希望のことです。浄土の教えは、「いま」直ちに悩みから抜け出すことができるとは言いません、「あした」かならず抜け出せると言うところに特徴があります。
 しかし「あした救われる」とどうして思えるのでしょう。「あした」なんてどうなるか分かったものではありません。これまで何度も言いましたように、「あした」に行ってきた人はいないのですから。「あした」に行くことは、自分の影を踏むのと同じで、絶対できません。「あした」に着いたと思ったら、それは「きょう」です。「あした」は「こうなるだろう」と予期するしかありません。「あした」の天気予報でしたら、まあ信じることができるでしょう。でも「あした救われる」なんてどうして信じることができるのか。
 いつかきっと病気が治ると信じることが大事で、そう信じることによって「いま」の苦しさに耐えることができるのだ、とよく言われます。その通りです、ぼくらは「あした」に希望を託すことで生きていけるのです。しかし、です。どうして「いつかきっと病気が治る」と信じることができるのでしょう。医者がそう言ってくれたからでしょうか。でも医者は、生きる張りを失わせまいとして事実を隠しているのかもしれません。家族のものたちもそれに合わせているだけかもしれない。


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