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本願海と群生海 [『正信偈』を読む(その38)]

(4)本願海と群生海 

 さて、親鸞は「ただ、弥陀本願を説かんとなり」とは言わず、「ただ、弥陀本願海を説かんとなり」と言います。
 もちろん7言にそろえるということもあるでしょうが、本願を海に譬えたいという思いが強くあったに違いありません。どうして本願は海なのか。始まりも終わりもないからでしょう。河にはその始まり(源流)があり、その終わり(河口)がありますが、海には始まりも終わりもありません。本願もまた始まりも終わりもないリレーです。
 そして親鸞は、われら衆生のことを群生海と、これまた海ということばを添えて表現します。
 そのとき親鸞の前には「いのちの海」が広がっていたことでしょう。本願がリレーであるように、いのちもまたリレーです。「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」という親鸞のことばは、この「いのちのリレー」のことを言っているに違いありません。生まれては死に、また生まれては死ぬ。これを繰り返して豊穣ないのちの海が形づくられてきました。
 さてしかし、こちらに群生海があり、あちらに本願海があるのではありません。群生海がそのまま本願海です。
 先ほど本願は「いま」始まると言いましたが、「いま」始まるということは、「ここで」始まるということです。「ここ」とは群生海です。群生海で「いま」本願海が始まるということは、群生海がそのままで本願海だということです。もし群生海とはどこか別のところに本願海があるのでしたら、「これから」本願海を目指さなければなりません。どんなに急いだとしても、そして、どんなに近くであっても、そこに達するのに何ほどかの時間がかかります。でも本願は「いま」始まらなければ、「これから」も始まらないのです。
 

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