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本願の海に気づいているかどうか [『正信偈』を読む(その40)]

(6)本願の海に気づいているかどうか

 本願を信じるかどうか、念仏をするかどうか、そんなことに関係なく、みんな本願の海にいるのです。でも、本願の海にいることに気づいているかどうか、これこそが肝心要の問題です。本願の海にいるのに、そのことに気づいていませんと、本願の海にいないのと変わりありません。それに気づいてはじめて本願の海にいることの利益が現れるのです。
 本願の海にいることに気づいたとき、「天に踊り、地に躍る」喜びが込み上げてきます。そして「念仏まうさんとおもひたつこころ」が起こります。これが「信楽開発の時刻の極促」とよばれる瞬間です。ですから、信心があるかどうか、念仏をするかどうか、ここにすべてがかかっているのです。
 「安心(あんじん)」の問題です。
 信心があるかどうか、念仏をするかどうかは、「安心」があるかどうかということに他なりません。前に言いましたように、「安心」を得た人は、自分を取り巻く状況がどんなに悲惨でも、それに耐える力を持っているはずです。しかし「安心」のない人は、どんなに人のうらやむ境遇にあっても、こころに空洞をかかえているのではないでしょうか。
 親鸞は「この穢れと悪に満ち満ちた時代に生きるわれら一切衆生は、まさに如来の真実のことばを信じるべきです」と言いますが、「信じる」とは「気づく」ということです。本願に「気づく」、これが本願を「信じる」ということです。
 本願に気づこうが気づくまいが、そんなことに関係なく本願はわれら一切衆生を包み込んでくれるのですが、しかし気づかないと「安心」が得られず、こころに空洞をかかえて生きていかなければならないのです。

             (第5章 完)

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