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一念喜愛の心を発すれば [『正信偈』を読む(その41)]

            第6章 煩悩を断ぜずして涅槃をう

(1)一念喜愛の心を発すれば
              6
 能発一念喜愛心(のうほついちねんきあいしん) 能(よ)く、一念喜愛の心を発すれば、
 不断煩悩得涅槃(ふだんぼんのうとくねはん) 煩悩を断ぜずして涅槃をう。
 凡聖逆謗斉廻入(ぼんしょうぎゃくほうさいえにゅう) 凡聖・逆謗、斉(ひと)しく廻入すれば、
 如衆水入海一味(にょしゅすいにゅうかいいちみ)  衆水、海に入りて一味なるがごとし。

 (現代語訳) 「本願を聞かせていただき、喜びがこころに満ち溢れますと、煩悩をもったまま涅槃の境地にはいることができます。凡夫も聖人も、五逆罪を犯したものや仏法を謗るものも、みな本願の海に入ってしまえば、さまざまな河の水が海に入ると同じ味になるように、何の違いもなくなるのです。」

 さてこれから、釈迦如来が、弥陀の本願を信じ、念仏するとはどういうことかについて説くところに入っていきます。
 まず「煩悩を断ぜずして涅槃をう」という印象的なことばが出てきます。これは大乗仏教の奥義である「煩悩即菩提」と同じです。煩悩がそのまま菩提であるというのですが、しかしこれほど矛盾に満ちたことばもないと言わなければなりません、菩提(bodhi)とは煩悩から解脱した悟りの境地を指すのですから。「生死即涅槃」とも言いますが、生死がそのままで涅槃であるというのも、どうみても矛盾しています、涅槃(nirvana)とは煩悩の火が焼き尽くされた安らぎの境地を指すのですから。
 その矛盾のなかに真理がある。


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