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悪魔のささやき [『正信偈』を読む(その44)]

(4)悪魔のささやき

 煩悩にもがいている現実には何の変化もありません。ところが同時に涅槃の境地が開ける。これはどう考えても矛盾しています。でもそれは、何度も言いますように、その状況を外から掴もうとしているからです。何とかして外から理解しようとしますと、矛盾した状況を解消しなければならず、そのためには煩悩か涅槃のどちらかを否定するしかありません。煩悩を否定することはできそうもありませんから、いきおい涅槃を否定することになります、それは何かの勘違いだろうと。
 あるところで、こんなふうに言われたことがあります、「本願名号が聞こえて、こころは喜びで溢れると言われるが、それが悪魔のささやきである可能性を否定できますか」と。なるほどその可能性を否定することはできません。しかしそれはあくまで「聞其名号、信心歓喜」の外から言えることです。外から眺めていますと、それが悪魔から来るか(したがって偽りの声か)、それとも弥陀から来るか(したがって真実の声か)が分からないじゃないかとなりますが、「聞其名号、信心歓喜」のただ中にありますと、それがどこから来るかなどという詮索は不要です。なぜなら、親鸞が言うように、「念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔す」ることはないからです。もうすでに涅槃の境地にいるのです。
 「煩悩を断ぜずして涅槃をう」ということばについて思いを廻らしてきましたが、これに関してはまだ言わなければならないことが残っています。『歎異抄』第15章との関係についてです。唯円はそこで「煩悩具足の身をもて、すでにさとりをひらくといふこと、この條、もてのほかのことにさふらふ」と言っています。「すでにさとりをひらく」と主張するのは聖道門であって、「来生の開覚(来世に悟りを開くこと)は、他力浄土の宗旨」であると言うのです。


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