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海に入りて一味 [『正信偈』を読む(その46)]

(6)海に入りて一味

 自分の身の周りが変わるわけではありません。自分自身が変わるわけでもありません。ただ「安心」が得られるだけです。「そのまま生きていていい」と言ってもらえて、「こんな自分だけれど、このまま生きていていいのだ」と喜ぶだけです。たったそれだけのことが、しかし、どれほど大きな力になることでしょう。
 つまらないことに腹を立てたり、人より少しでも多くをと欲を起こしたりといったことがなくなるわけではありません。ですからまだ悟りは開けてないのです。でも、腹を立てたり、欲を起こしながらも、「そのまま生きていていいのだ」と思えることが、どんなにか大きな慰めとなることか。それ以上に何がいるでしょう。
 さて、「衆水、海に入りて一味なるがごとし」というところです。本願の海に入れば、どんな人もみな斉しい、というのです。
 ぼくらは一人ひとり皆違います。身体の頑健な人もいれば、ひ弱な人もいます。見目麗しい人もいれば、不細工な人もいます。頭のいい人もいれば、血のめぐりの悪い人もいます。さっぱりとした性格の人もいれば、ひねくれた人もいます。どうみても、人は斉しくありません。世の中、不公平だという嘆きが溢れるのも道理です。あの人のようにいつも元気であればなあ、あの人のように格好がよければなあ、あの人のように頭がよければなあ、あの人のように性格がよければなあ、とため息が漏れます。
 そして一人ひとり違うということで言えば、道に落ちているゴミを拾う人もいれば、平気でゴミを捨てる人もいます。一方には「あんなに素晴らしい人はいないよ」という人がいれば、他方には「あんなにひどい奴もいない」と言いたくなる人がいる。こんなふうに序列がつけられるのが世の中というものでしょう。としますと福沢諭吉が「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」というのはどういうことでしょう。みんな違うのにみんな斉しいとはどういうことか。


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