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いのちに軽重はない、か? [『正信偈』を読む(その47)]

(7)いのちに軽重はない、か?

 「そりゃ、〈人として〉斉しいということさ」という答えが返ってくることでしょう。一人ひとりがどんな人かという点ではみんな違うし、そこに優劣がつけられるのは仕方ないが、人としてはみんな同じ、ということです。さてしかし、この「人として」とは何でしょう。これを考え出しますと、なかなか難しい。
 馬のことを考えてみましょうか。あの馬は毛並みがいいとか、あの馬は体の線がいいとか、あの馬はとにかく足が速いとか、さまざまに優劣がつけられますが、「馬として」は同じでしょう。みんな馬。でも「馬として」とはどういうことか。
 馬としての共通の特徴をもっているということだ―これがとりあえずの答えでしょう。
 今なら、同じDNAの型を持っていると言われるでしょうか。でも、人間のDNAとチンパンジーのDNAは99.99…%同じと言われるように、馬のDNAと騾馬のDNAもほぼ同じに違いありません。つまりもう境目もなく隣り合っているところに、人間が適当に境界線を入れているだけのことです。
 ぼくらは馬を考えるとき、何か馬として共通の核のようなものがあり、それを包むようにさまざまな属性(いい毛並み、いい馬体などなど)が取り囲んでいるというイメージを持っていますが、はたして核などあるのでしょうか。ラッキョウの皮をむくのと同じで、次々と皮をむいていきますと、あれれ、何も残らない。
 しかし「いのちに軽重はない」と言うではないか、という反論があるかもしれません。それぞれの人の属性(顔のよさ、頭のよさなどなど)には優劣があるにしても、いのちに優劣はないと。確かに、いのちに優劣をつけられたら、ぼくらのなかの何かが猛烈に反発します。しかし「いのちに軽重はない」と言いながら、ぼくらは現にさまざまないのちを食べています。己のいのちを維持するために他のいのちを犠牲にしています。


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