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スピリチュアル [『正信偈』を読む(その51)]

(3)スピリチュアル

 まじめで理知的な人がどうしてスピリチュアルの世界に惹かれるのだろう、本屋には宗教の棚と並んで「精神世界」の棚が同じぐらいのスペースをとっているが、優秀な若者たちがオウムに惹かれていったのと同じ流れがとどまることなく続いているのだろうか、などと思いながら読みました。
 この本を要約すれば一行で済みます、「ゆるすことが幸せへの道である」。少し前に『怒らないこと』という本も読みましたが、これも一行で終ります。「怒らないことが幸せをもたらす」、これを繰り返すだけ。これらの主張に異論があるわけではありません。ゆるすことや怒らないことがぼくらを幸せにしてくれるのは間違いないでしょう。
 問題は、これらの本の著者は、ぼくらがものの見方を変えることによって、ゆるすことや怒らないことを意のままにできると考えていることです。ゆるそうと思えばゆるすことができる。怒らないでいようと思えば怒らないでいることができるという前提に立っていることです。
 実際は、ゆるそうと思ってもゆるせるものではありません。怒らないでいようと思っても怒ってしまうものです。もちろん、それではいけないと思って、ゆるすようにしよう、怒らないようにしようと努力するでしょう。でも、つい「ゆるせない」と思ってしまうし、気がついたら怒ってしまっている、そこが問題ではないでしょうか。
 なのに、その一番肝心なところには眼を向けようとしない。彼らは、「ゆるせない」と思ったり怒ったりするのは、それが不幸の根本原因であることを認識していないからだと考えています。それをきちんと認識できさえすれば、ゆるすことができるし、怒らないでいることもできると言うのです。
 

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