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喜びと悲しみと [『正信偈』を読む(その55)]

(7)喜びと悲しみと

 喜びは願わしく、悲しみは厭わしい。ですから、できることなら喜びだけの世界、悲しみのない世界に行きたいと思います。でも喜びだけの世界とはどんなところでしょう。そこには喜びしかなく、悲しみは全くないとしますと、喜びを喜びと感じることができるでしょうか。
 地球上には暑い地域と寒い地域があります。あるいは暑い季節と寒い季節があります。だからこそ暑い、寒いと言えるわけで、もし地球全体がいつでもどこでも同じ温度、例えば摂氏30度だとしますと、それを暑いと思うことはありません。もう暑いとか寒いとか言うこと自体がなくなるでしょう。
 同じように、喜びを喜びと感じるためには悲しみがなければなりません。しかし、喜びを感じているとき、そこには悲しみはありません。喜びを感じながら、同時に悲しみを感じるというようなことはできない。としますと、喜びと悲しみは背中合わせに張り合わされていて、こちら側は喜びに溢れているが、その裏側では悲しみがそっと控えていると考えるしかありません。
 「聞其名号、信心歓喜」の現場に戻りましょう。
 本願名号が聞こえてきて、ぼくらのこころに喜びが満ち溢れます。「そのまま生きていていい」と聞かせてもらえたのですから、喜ばしくないはずがありません。でも、その声が聞こえたのは、「このまま生きていていいのだろうか」と煩悶しているからこそのことです。その煩悶のないところには「聞其名号、信心歓喜」はありません。
 このように「そのまま生きていていい」という喜びの裏側には、「このまま生きていていいのだろうか」という悲しみが潜んでいるのです。その悲しみの海にいて、ふと横をみると、そこがそのまま喜びの海であることに気づく、これが「よこさまに超える」ということです。

            (第7章 完)

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