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自力は難行、他力は易行か? [『正信偈』を読む(その57)]

(2)自力は難行、他力は易行か?
 
 末法思想というものがあります。これは浄土思想と対になっていて、末法の世になったから、もうこれまでの自力の聖道門では間に合わなくなり、今こそ他力の浄土門の出番なのだというように説かれます。末法思想と言いますのは、時代とともに世は悪くなっていき、末法の世ともなると、仏教はあっても、もう誰もそれにしたがって修行することもなく、当然、悟りをひらくものなど一人もいなくなると言うのです。となりますと、他力による救いを説く浄土の教えこそが末法の世に相応しいと言わなければならないと。
 ここには「聖道門=難行道、浄土門=易行道」という図式があります。聖道門は、悟りを目指して厳しい修行を一歩一歩積み重ねていかなければならない困難な道のりだが、それに対して浄土門は、弥陀による救いを信じて念仏するだけだから、これほど易しいことはないというのです。自力は難行で他力は易行というのは耳に通りやすい。自力というからには自分で努力しなければならないが、他力はこちらから何もしなくても誰かがしてくれるというのですから。
 しかしこのイメージそのものに欠陥があります。
 他の誰かにしてもらうのも、多くの場合、というよりほとんどの場合、自力だからです。はやい話、ぼくは自分の食べるものを他の誰かに生産してもらっていますが、これを他力とは言いません。ぼくはそれに対して代金を払っているからです。そのお金はぼくが稼いだものですから、これはお金と食べものの交換であり、もっと言えば、ぼくの労働と他の誰かの労働を交換しているのです。
 としますと、交換ではなく、純粋に他の人にしてもらう他力とは「無償の贈与」ということになります。
 

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