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無償の贈与 [『正信偈』を読む(その58)]

(3)無償の贈与

 ここでいう「無償」は厳格にとらなければなりません。無償に見えて、実は見返りが隠れていることが少なくないからです。ではどんなケースがほんとうに無償でしょう。結論を先に言っておきますと、文字通りの無償の贈与には二つの条件があります。ひとつは贈る側に贈ろうという意識がないこと、ふたつは贈られる側に贈られるだろうという期待のないこと、この二つです。
 まず贈る側に「これを誰かに贈ろう」という意識が生まれた途端にそれはもう無償でなくなり、交換になります。どういうことか。
 お返しを期待することなく「これを誰かに贈ろう」とすることはいくらでもあるように思います。例えば、親が離れて暮らす子どもにいろいろな品物を贈るとき、お返しなど期待していません。でも、荷造りをしている親の頭に、それを受け取った子どもの嬉しそうな顔が浮かんでいないでしょうか。それがもう何よりのお返しです。電話で「ありがとう」のひと言でもあれば何も言うことはありません。とすれば、これはやはり交換ではないでしょうか。
 被災地にボランティアに出かけるというのはどうでしょう。
 ときどき思うのです。いまぼくには時間の余裕もあり、お金にも困っているわけではありません。日々好きなことをして楽しく暮らしています。とすれば、やはりボランティアに行くべきではないのか。行けば多少は人さまの役に立つのではないかと。でも、同時に思うのです、こんなふうにボランティアをしていないことを後ろめたく思っていること自体がどこかおかしいのではないかと。


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