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「なむあみだぶつ」の贈りもの [『正信偈』を読む(その60)]

(5)「なむあみだぶつ」の贈りもの

 別に見返りとしてではなくても、誰かからの贈与を期待するということはあるのではないかという疑問が出されるかもしれません。しかし、それはあまりに虫のいい期待と言わなければならず、やはり「贈ってもらってもいいんじゃないか」と思えるだけの事情があるからこそ、期待をするのです。縁もゆかりもない人から何かが贈られると期待することはありません。
 思いがけない贈りものが届くというのはありふれたことです。でも誰からの贈りものかが分かりますと、思いがけないものではなくなるのが普通です。「ああ、あの人からか」と、贈ってくれた事情を納得するものです。しかし、まれにですが、ほんとうに思いがけない贈りものがあるのです。そして、おもしろいことに、そのときには贈る側にとっても思いがけなくて、自分が何かを贈ろうなんて思ってもいないのです。
 贈る側に贈るという意識がないことと贈られる側に贈られるだろうという期待のないことは実は同じことです。そしてそれこそ交換ではない正真正銘の無償の贈与ですが、そんなことがほんとうあるのでしょうか。あるのです。贈る側は贈ろうなどとつゆ思わず、贈られる側は贈られるなんて思いもしない贈りものがあるのです。
 それが「なむあみだぶつ」の贈りものです。
 散歩しているとき、向こうからやってくる方、どなたか知らない方から、思いがけず「こんにちは」と声をかけていただき、どういうわけかそれがこころに沁みることがあります。何か鬱々としたものをこころにかかえているようなとき、知らない方からの「こんにちは」が「そのまま生きていていいですよ」と聞こえる。これが「なむあみだぶつ」です。
 どなたか知らない方は、通りすがりに「こんにちは」と挨拶してくださっただけで、ぼくに「なむあみだぶつ」を贈ろうなどとつゆ思わず、ぼくとしても、散歩の途中、思いもかけないことに「なむあみだぶつ」を贈っていただいた。これが正真正銘の無償の贈与です。そしてこれこそ他力ということです。


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