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弥陀に救われる? [『正信偈』を読む(その68)]

(6)弥陀に救われる?

 さて、「救われた」というのは「与えられた」という受動形であるというところに戻りまして、では誰から与えられたかという問題です。親鸞の場合、言うまでもなく、法然から与えられたのでしょうが、しかし法然としては自分が親鸞に救いを与えたなどとは思っていないでしょう。
 もし法然がそう思っているとしたら、もうそれだけで法然は詐欺師だと言わねばなりません。宗教の本質は「救われる」ことにあり「救う」ことにあるのではないのです。そのことを鮮やかに教えてくれるエピソードが伝えられています。
 あるとき親鸞が「わたしの信心も法然聖人の信心も同じだ」と言ったところ、兄弟子たちが「馬鹿なことを言うもんじゃない」と激しい争いになり、最後に法然に裁定を仰ぎますと、「親鸞の信心もわたしの信心も弥陀から賜ったものだから同じである」との答えが返ってきたというのです。
 法然としては、自分が親鸞に信心を与えたなどとは思いもよらないことです。しかし親鸞としては、「よきひと(法然聖人)のおほせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」です。法然は与えたとはつゆほども思っていないのに、親鸞は与えられたと感じている。
 としますと、法然はただ受け渡しただけということです。法然もまた与えられたものが、親鸞へ受け渡されたということ。まさにリレーです。前の走者から渡されたバトンを次の走者へ渡す。バトンを渡された走者にとっては、紛れもなく前の走者から受け取ったのですが、しかし前の走者もまた、そのさらに前の走者から受け取っただけです。
 かくして前へ前へと遡っていきますが、さてどうなるのでしょう。言うまでもなく阿弥陀仏に行き着くのですが、そこで立ち止まってしまいますと、「宗教はどうも」という人と不幸なすれ違いになってしまいます。宗教に拒絶反応を示す人は、この絶対者に躓くのですから。
 

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