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天皇の戦争責任 [『正信偈』を読む(その69)]

(7)天皇の戦争責任

 ここでふと思いついたことがあります。旧帝国軍隊のことです。
 戦争犯罪を裁く法廷で、ある命令を下したことの責任を問われた軍人は「それは上官の命令です」と答え、その上官に問いただすと、また「それは上官の命令です」となり、かくしてついに大元帥である天皇にまで行き着くのですが、ではすべての責任は天皇にありということになるかと言いますと、必ずしもそうはならないのです。
 議会や内閣そして軍部が天皇を補佐していたのだから、そうした国家機関にこそ責任があるというようにして、何だか責任の所在が曖昧模糊としてしまうのです。これは日本の組織のありようとして深く考えなければならない問題ですが、そのこととは全く別に、ここに先のリレーとよく似た構造があるような気がするのです。
 本願のリレーをずっと遡りますと阿弥陀仏に行き着くのですが、では阿弥陀仏が始点かといいますと、そうは言えないのです。
 阿弥陀仏が始点であるとしますと、阿弥陀仏は本願を渡すだけで、受けることはないということになります。当たり前だ、弥陀の本願なのだから、と言われるかもしれませんが、第5章で触れましたように、『無量寿経』の説くところからしても、法蔵菩薩は過去の諸仏から本願を渡されているのです。
 法蔵菩薩もリレーの一走者にすぎないということです。それは、考えてみますと、経典にそう書いてあるからということでなく、当然そうでなければなりません。何度も言いますが、宗教の本質は「救う」ことではなく、「救われる」ことにあるからです。
 法蔵菩薩も救われなければならない。
 

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