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易行の水道 [『正信偈』を読む(その78)]

(2)易行の水道
 
 難行、易行についてはすでに第8章において詳しくお話しました。そのことばのままに自力は難行、他力は易行としてしまいますと、迷路に入り込んでしまうということでした。「難しい」とか「易しい」というのは自力で何かをしようとするときに使う尺度ですから、単純に、悟りを得るのは難しいが、本願を信じるのは易しいとしてしまいますと、本願を信じることも自力になってしまいます。本願を信じるのは難しいことでも、易しいことでもないのです。
 では「易行の水道」とはどういうことか。
 前章でお話しました「悟りをえる仏教」と「救われる仏教」との違いに関係してきます。大乗運動は、これまでの出家が「悟りをえる仏教」を在家が「救われる仏教」へと革新するものでした。これまでの仏教は「これから」悟りを得ようとして厳しい修行を積まなければなりませんが、新しい仏教は「もうすでに」救われたと気づくところにその本質があります。「救われる」は実は「救われた」という現在完了形であることを思い出していただきたいと思います。
 「これから」何かをするのは、とても易しい場合もあれば、とんでもなく難しい場合もあるでしょうが、どんなに易しくても、ともかく「こちらから」動きださなくては何ごとも始まりません。それに対して「もうすでに」起こっていることにふと気づくのは、すべて「向こうから」ですから、こちらとしてはとくに何もすることはありません。そこを見ますと、まさに「易行の水道」でしょう。自分としては何もせず、ただ船に乗っているだけでいいのですから。
 そのことをあらわす特徴的なことばに「自然(じねん)」があります。

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