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すなはちのとき [『正信偈』を読む(その80)]

(4)すなはちのとき

 「自然法爾章」に出てきます「義なきを義とす」ということば(法然のことばとして伝えられています)は「はからいのないことが正しい」ということですが、そこから、「そうか、はからいがあってはいけないのだ、何もはからわずに、じっと待っていればいいのだ」と考えてしまいますと、落とし穴にはまってしまいます。
 「じっと待つ」のもはからいです。
 何かを待つとき、目は「これから」を見ています。「これから」起こることを期待しているのです。でも「自然に」は「もうすでに」です。「ドアが自然に開いた」とは、あっと思ったときには、ドアは「もうすでに」開いていたということです。ドアが「これから」開くのを、何もしないでじっと待つわけではありません。そうではなく、何もしていないのに「もうすでに」開いてしまったことに「いま」気づいたのです。これが「自然に」です、「行者のはからひにあらず」ということです。
 さて、「自然にすなはちのとき必定にいる」とありますが、「自然に」と「すなはちのとき」とは別ではありません。「自然に」だからこそ「すなはちのとき」なのです。
 「自然に」でないなら、つまりそこに「行者のはからい」があるなら、「すなはちのとき」というわけにはいきません。すぐか少ししてかの違いはあれ「これから」になります。「はからう」とは「こうしようと思う」ことですから、こうしようと思い、その結果として何ごとかが生起するわけで、その間になにがしかの時間の経過があるのです。いまの場合ですと、「弥陀の本願を憶念する」ことと「必定に入る」こととは原因・結果の関係になり、その間には時間の流れがあります。「すなはちのとき」とはなりません。
 

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