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大悲弘誓の恩を報ずる [『正信偈』を読む(その81)]

(5)大悲弘誓の恩を報ずる

 では「はからい」のないときはどうでしょう。
 「自然に」憶念するとは、憶念しようとして憶念するのではなく、気がついたら「もうすでに」憶念していたということです。「はからい」として憶念するときは、こちらに自分がいて、向こうに弥陀の本願がありますが、「自然に」憶念するときには、そのように自分と本願とが離れていなくて、気がついたら「もうすでに」本願の中にいるのです。
 ですから、こちらから本願を憶念するというよりも、本願がこちらを憶念していると言うべきでしょう。それが「必定に入る」ことに他なりませんから、「本願を憶念する」ことと「必定に入る」ことは「すなはちのとき」です。「本願を憶念する」ことと「必定に入る」ことの間に全く隙間がありません。「念仏まうさんとおもひたつこころのをこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふ」(『歎異抄』第1章)のです。
 さて、「本願を憶念する(信ずる)」そのときに「必定に入る」ということから、「常に如来の号を称える」のは「大悲弘誓の恩を報ずる」ことだと続きます。
 浄土真宗では、「報恩の念仏」とか「仏恩報謝の念仏」とよく言います。とりわけ蓮如の書くものを見ますと、これがその中心に据えられていると言ってもいいでしょう。『御文』の第一帖、第一通にこうあります、「信心決定のうへに仏恩報尽のために念仏まうす」。第二通には「たとひ行住坐臥に称名すとも、弥陀如来の御恩を報じまうす念仏なりとおもふべきなり」といった具合で、もうことあるごとに「報恩の念仏」が説かれます。
 その趣旨は明らかでしょう。「聞其名号、信心歓喜、…、即得往生」(本願成就文)とありますように、信心歓喜により正定聚不退の位に定まるのですから、念仏するのはその御恩を報ずる以外にないということです。


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