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本願を生きる [『正信偈』を読む(その83)]

(7)本願を生きる

 本願を聞くことができて「すなはちのとき」に必定(正定聚)の仲間入りができ、大きな喜びが胸の奥から湧き上がってきます。これが歓喜地です。その境地にいる人は、本願を信じているのではありません、本願の中に生きているのです。来生の往生を信じているのではありません、来生の往生を今生きているのです。正定聚というのは、ただ単に来生の往生が定まった人というのではなく、来生の往生を今生においてすでに生きている人のことです。
 「本願を信じる」と「本願を生きる」。
 「本願を信じる」というのは、こちらにぼくがいて向こうに本願があり、ぼくが本願をしっかり受けとめる。それに対して「本願を生きる」は、ぼくはもう本願にすっぽり包み込まれ、その中で安らいています。ぼくが「本願を信じる」場合、ぼくと本願との間にはまだ距離があります。ですからどれほどその距離を詰めて本願は確かだと思っても、「ひょっとすると」という隙間風が吹くのは避けられません。でも「本願を生きる」場合、ぼくはもう本願の海にいるのですから、ぼくと本願とは切り離せません。ですからそこに「ひょっとすると」の入る余地はないのです。
 念仏すれば必定に至ることを信じて念仏するのではありません。あるときふと本願に出会い、そして「すなはちのとき」に必定に至る。もう嬉しくて仕方ありません。だから念仏するのです。念仏すれば必定に至るのではありません、必定に至ったから嬉しくて念仏するのです。
 ぼくらは嬉しくて仕方がないとき、嬉しさは内に留まっていることができず、自ずと外に現れてきます、表情として、仕草として、そして声となって。どんな声になるかは、その状況により人によりさまざまでしょうが、そこには感謝の気持ちが込められているに違いありません、「ありがとう」と。これが「大悲弘誓の恩を報ずべし」ということです。

            (第11章 完)

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