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唯識とは [『正信偈』を読む(その85)]

(2)唯識とは

 さて唯識とは何かということですが、「すべてはわれらの表象にすぎず実体ではない」と説く高度な仏教哲理で、中国・日本には法相宗(日本では奈良の興福寺・薬師寺が本山)として伝えられています。しかし、すべてはわれらの表象にすぎないというのは極端な観念論のように思えます。われらの表象の外に実在としての世界があるじゃないかというのが常識でしょう。ここは唯識について説明するところではありませんが、その説くところを感じだけでも味わうために「過去」とは何かについて考えてみましょう。
 天親は「4世紀に北インドに現われた」と言ったばかりですが、天親はほんとうに4世紀に実在したのでしょうか。
 ぼくは長年高校で世界史を教えてきましたが、ときどき生徒から意表を突くような質問を受けます、「先生は見てきたかのように過去のことをしゃべっていますが、それがほんとうにあったことだとどうして分かるんですか」と。「講釈師、見てきたような嘘を言い」ということばがありますが、講釈師が唸っている内容がほんとうに自分の目で見てきたかのようだというのですから褒めことばに違いありません。ですから「見てきたようにしゃべっている」と生徒に評されたのは誇りとしなければならないかもしれないですが、さてしかし「そんなの出鱈目かもしれないじゃないか」という哲学的疑問にどう答えるべきか。
 で、「いや、ちゃんと記録が残っているんだよ」と言いますと、さらに「その記録がでっち上げではないとどうして分かるんですか」と突っ込んできてもよさそうですが、そこまでする生徒はまずありません。きっとそんなふうに思っているんでしょうが、彼らは大人の分別(?)で「これ以上先生を苦しめるのはかわいそうだし、授業が先に進めないからな」と諦めるのでしょう。これはしかし「過去とは何か」という哲学の難問につながっているのです。
 4世紀の大昔ではなく、昨日のことを考えてみましょう。


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